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サイキックプロテクションが要らなくなる日

人と関わるとき、
実際に見えないところで色々起きていると思います。

感情の同調。
緊張の伝播。
期待や役割の押し付け。


その場の空気を読むための、ほとんど無意識の自己抑制。

そうした微細な反応が、神経系や身体感覚に、少しずつ残っていきます。


目に見えないけれど、感覚としては案外わかりやすいと思います。

気を使いすぎたあと、肩が重くなる。


誰かの不安に触れたあと、理由もなく疲れる。


否定的な場に長くいたあと、呼吸が浅くなる。

こうした感覚は、「何かをもらった」というよりは、


自分の中にある負の反応が解除されずに、そのまま残っている状態なんだと思います。

昔から使われてきた「邪気」という言葉も、
この残留感覚を、その時代の言葉で説明しようとした結果だと考えると、
少し腑に落ちるところがあります。

ここでいつも、『ん?』と立ち止まる点があります。


それは、本当に相手のものが自分に入ってきたのか?ということ。

私の体感としては、
自分のシステムが、相手に合わせて一時的に変化しただけ、
そう感じる場面のほうが多いです。

意識が戻る。
呼吸が深くなる。
身体感覚に戻る。

それだけで、自然に抜けていくこともあります。
特別な浄化や、誰かに取ってもらう必要がない場合も、少なくありません。

反対に、


「邪気が溜まる」
「私はもらいやすい体質だ」


という物語を強く信じるほど、
自分の感覚よりも物語のほうを優先してしまい、
回復までに時間がかかることもあります。

やはり本人が信じてることが、その本人にとっての現実になりますから。。。

人との関わりのなかで、
反応の残り香のようなものが生まれること自体は、私にとっても珍しいことではありません。


でもそれは、自分に戻ることで、ほどけていく性質のものでもあります。

『覚醒』という言葉を使うなら、
それは「何かを受けてしまう人」になることではなく、
自分の状態を観察して、戻れる人になっていく過程なんじゃないかと思います。

覚醒するにつれ、溜め込む前提で生きる、という感覚が、
少しずつ必要なくなっていきます。

サイキックプロテクションという言葉が、
本来指しているものについて私は以下のように考えています。

外からの何かを防ぐ結界やバリアというより、
自分の注意と主導権を取り戻すための『枠組み』。


そのくらいの意味合いだったのではないか、と。

違和感が生まれるのは、
それが
「守らないと侵入される」
「私は影響を受けやすい」
という前提と結びついたとき。

その瞬間、プロテクションは安心ではなく、
警戒装置のように働き始めます🔒


神経は常に外を監視し、
結果として、余計疲れやすくなる。

一方で、健全に機能しているプロテクションは、
もっと地味なものです。

今、誰の感情を感じているのかがわかる。

感じている自分を感じる。
必要以上に同調しない。
違和感があれば距離を取れる。
関わりが終わったら、自分に戻れる。

それはテクニックでも性格でもないと思います。
無理やり言葉にすると『自己感覚の明瞭さ』に近いんじゃないでしょうか。

グラウンディングや境界線という言葉のほうが、
しっくりくるかもしれません。

サイキックプロテクション ≒ グラウンディング+境界線

その状態にあるとき、
「プロテクションを張る」というのは、
ヘルメットをかぶったまま家の中を歩くようなもの。

安全ではあるけれど、
少し重く、そして滑稽。

影響をゼロにすることより、
影響を受けたと気づいて戻れるほど、グラウンディングできていること、

自分を大事にできてることが重要なんだと思います。


何かを信じなくなったので、サイキックプロテクションが要らなくなったのではなく
自分の感覚に戻る道を思い出した(=自分に正直になった)ので要らなくなる。

その境目は、とても繊細で、
気づいたときには、もう通り過ぎていることもあります。

Makiko