静けさというものは、ただ“音がない状態”ではありません。
意識の表面に浮かんでいた思考の波が落ち着き、内側の湖面がふっと澄み切るとき、ようやく本来の方向が見えてきます。
私たちは、つい情報や他人の期待に合わせて道を歩いてしまいますが、身体の深いところ
――特に丹田のあたり――は、
ずっと前から小さく合図を送り続けています。
そのサインはいつも微細で静かです。
胸のざわつき、軽い違和感、理由のわからない疲れやすさ。
逆に、“妙に落ち着く”“なぜか気が合う”、“ここにいたい”という感じもそう。
身体は言葉を使いませんが、嘘をつかない知性を持っています。
ご自身の身体の重心がどこにあるかを感じてみてください。
頭にのぼった意識で語っているときは、声は軽く、言葉はどこか宙に浮き、未来のイメージもにじみます。
でも、丹田に意識が落ちてくると、語る速度は自然にゆっくりになり、選ぶ言葉の質が変わり、視野が“自分の中心”からのものに戻ります。
これは決してテクニックではありません。
魂の軌道に戻るとき、人は必ず「静けさ」と「身体の反応」を同時に取り戻すからです。
面白いことに、本来の軌道に戻る瞬間は、ドラマティックではなく、どちらかといえば“静かな決定”のように訪れます。
やめるべきことをやめ、行くべきところへ行き、会うべき人に会う。
そこには感情の高ぶりより、深い納得があります。
“ああ、これでよかったんだ”というホッとした安心安定の呼吸。
私自身も、長いあいだ外の価値観を追いかけてきました。
西洋のスピリチュアルメソッドを学び、知識を広げ、技術を手に入れ。
そのすべては確かに役立つものだったけれど、ある時期から“身体がついてこない感覚”を覚えるようになりました。
そのころ、丹田という言葉に出会い(正確にいうと元々その言葉自体は知識としては知っていましたが、改めて出会い)、呼吸の深さ、足裏の感覚、姿勢のわずかな変化が、意識の質をまるごと変えることに気づきました。
そこから、私の中で“軌道の戻り”が始まりました。
西洋スピリチュアルは「風のメソッド」で、概念を扱い、認識を変え、多角的な視野を広げるのが得意。
一方、日本的な道(武道、禅、丹田の知恵)は「地のメソッド」で、身体と間(ま)を扱い、沈静のなかから本質を立ち上げるイメージ。
最近、この「風と地」をひとつの軸に重ねるフェーズに入った方が多いように思います。
あなたがもし今、何かがうまく噛み合わない、意図した方向へ進めない、もしくは「これで合っているのか?」という感覚を抱えているのなら、それは魂が“別の軌道”を示しているのかもしれません。
それは、コロッと道を変える、というのではなくどちらも体験し、統合していくため。
そのサインは、心より先に身体が知っています。
静けさの中で身体を感じると、人生の方向は自然と絞られていきます。
頭で決める選択肢はたくさんあっても、身体で選べる選択肢は驚くほど少ない。
そして、その“少ない方”がいつもあなたにとってぴったりなものに近い。
身体に合う衣服や靴、身体の相性がいい人、身体に合う食べ物。
身体に耳を澄ませると、世の中にある何でもかんでもOKというわけではないことに改めて気が付きます。
人に向かって、私はこれが嫌い、苦手だ、または私にはこれが良かったので勧めます!、とアピールする必要は全然なく、静かに自分でスッと優雅に境界線を引けばいいだけです。
魂の軌道は、探すものではなく、戻るもの。
その道は、思考ではなく、静けさと身体の反応の方がよく知っています。
今日、ほんの5秒間、目を閉じて呼吸を下腹に落とす時間を作ってみてください。
静けさの底に沈んだとき、あなたの内側で微かに光る“次の一歩”が、そっと形を持ち始めるでしょう。
Makiko


