大嶋信頼さんの、『それ、あなたのトラウマちゃんのせいかも?
あなただけの 超簡単な言葉を唱えるだけで“いまここ”で楽になる!』
という本からの引用です。
トラウマの人って、一日の大半の時間は〝恐怖を回避する〟ために費やされてしまう。
人のことを心 配したり、将来のことを思いあぐねたり、
人の気持ちを勝手に探って独り相撲をしていたり、
頭の中 で人に怒ったり、過去を振り返って後悔したりするが、
これら全てがトラウマで脳に固着した〝恐怖〟から回避するためのものだった、
と考えてみると非常に興味深くなる。脳的に考えてみると、普通の人だったら、今、
目の前に危険が無ければ、脳は静かである。
だから、平安でボーッとその静かな時を楽しむことができる。脳の未知なる能力で「現実を変える」というのは、
ある意味で〝神〟の様な力を持っていることになる。その神のような現実を変える能力を使って、
人を不幸の中から救ったり
「不幸を生み出す不条理 な世の中を変えていかなければいけない」
という〝万能感〟を
トラウマの人は心のどこかで抱えてい ることがある。トラウマの人は、記憶として処理されなくなった不快な人物の残像と
常に頭の中で戦っているから、
脳内のエネルギーを使い果たしてしまって体力が無い。過去の記憶として処理されなかった不快な人 物と戦い続けて疲れ切ってしまっているから
「現実的に何も動けない」という状態になってしまうの である。トラウマの人は自覚が無いのだが、どこかであの現実を書き換えることができる
〝万能感〟の甘美な 味を知っている。トラウマを負って「普通の人とは違う!」という意味の中に、
みんなと一体になれない劣等感があるのだが、
その反面であの万能感も隠れていて「普通の人とは違う!」という優越感 がある。誰かに失礼な態度を取られたことでムカついていたら、
実はそのことで怒っているのではなくて、
怒りは〝恐怖〟を回避するために必要なものだから回避のネタとして使っているだけ。でも、あえてそ の怒りに浸ってみる。その怒りにしばらく浸ってから、
その怒りの下にある恐怖へと潜っていく。〝恐怖に浸る〟を続けてみると、それまで見えなかったものが見えてきて、
わからなかったものがわ かるようになる。そして、自分の本当に求めていることに向かって自然と自由に行動したり、
選択で きるようになるのだ。瞑想が、トラウマによって解離した脳に固着した〝恐怖〟に浸る目的だったら有効である。
ガウタ マ・シッダールタ(仏陀)の話の中では、
瞑想の中で〝恐怖〟と向き合って 悟りを開いた、
という場面が出てきた。脳の凪(し~んとしていること)により、今、この時がキラキラと輝いていて、
全てのものがそれだけで十分という感覚になった時に、
本当に必要なものは全て自然と手に入ってしまう。それまで、トラウマの人は「人から認められたい」とか
「自分の味方になって欲しい」と相手に気を使って一生懸命に努力しても
結果はその逆になっていたが、脳が凪になってみると、
自然と人からの賞賛を得るようになっているし、
何も気を使うことをしていないのに相手はいつの間にか自分を認め、
自分の味方になってくれるようになっていた。脳と環境が同期して、回りの環境がまるで自分の一部のように、
自分のために動きだす。でも、脳が凪なので、トラウマだった人の中では歓喜がない。
求めていたことなのだけど、それがまるで当たり前のように思えてしまうのだ。